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第2講 投資家軽視の資金調達史

2020 3/28
目次

銀行べったりが弊害

第1講では株式投資の最低限の心構えについて説明した。いわば、株式投資だけでなく、いろんなことをする場合には最低限のマナーを理解して臨まなくてはならない。お行儀の悪い、自分さえよければ・・・の精神では結果的には、つまはじきされるだけだ。証券会社はそれに近い存在のために、産業界の中でもなかなか存在感が高まらない。財界の中で重要な位置を得られないのもそうしたこととは無縁ではなかろう。しかし、せめて、投資家の皆さんは身勝手行動を慎み、最低限のマナーやルールを守って正々堂々と株式投資の醍醐味を味わうことのできるようになろうではありませんか。そのために、この講座を開いたのですから・・・
 さて、前置きはそれまでにして、第一講で投資家は冷遇されすぎている、と指摘して政府や証券会社が親身になって、アドバイスをしていないと日本の投資家に対する現状について、簡単に説明した。それは同じ、資本主義国の欧米とあまりにも違う点だ。どこで、そうした違いが発生したのかについて、もう少し、話を進めておきたい。「エー、何だか学校の社会科の授業みたいになってきた。早く、株式投資の戦略を説明してよ」との声が聞こえそうだが、せめて、投資家として日本の投資家へのサービスの悪いルーツぐらいは最低限、知っておいてもよい。そう思って、あえて社会科の授業のようなことに触れていく。チョッとだけガマンしてくださいね。

それは日本の企業の資本・資金調達の過去の歴史と深い関係があるので、その歴史について知ることで投資家へのサービスが悪かったことがハッキリする。

戦後、日本は奇跡的な経済成長を続ける。1950年代後半から1970年代にかけて、ほんの一時期を除けば、現在の中国以上の高い経済成長を続けていた。当然、企業はその過程で飛躍的な発展を遂げるのだが、その企業成長の原動力に欠かせない資金調達は銀行から資金を借り入れて資金を回転させて収益を得る方法がとられた。すなわち、間接金融による資金調達方法である。直接金融(投資家から直接資金を集める方法を直接金融と呼び、金融機関からの資金調達を間接金融と呼ぶ)をしたくても、戦後しばらくの間は国民は貯蓄などという余裕はごく一部の人にしかなく、大多数の国民は食べるだけで精いっぱいであった。そのため、企業の調達方法はおのずと銀行との関係が深くならざるを得なかった。したがって、いかにして、銀行と親密な関係をつくるのかが企業の課題になる。当然、株式も銀行にもってもらい、企業も銀行の株式をもつという関係が生まれた。これが株式の持ち合い構造の原点である。系列と称する日本固有の現象も巨大企業が関係企業との取引を有利にしたり、関係強化を狙ってお互いの株式を持ち合うことになった。

 こういう構造が出来上がった状態の中では個人投資家は軽視される。金融機関さえいれば、個人投資家に株式を持ってもらわなくても良いという極端な投資家構造でも構わないことになる。多くをもっていると企業経営の運営上、差しさわりもあり、好まない。わずかの株式をもっていても特殊株主が株主総会で幅を利かせ無駄な時間と費用を費やすことにもなる。そのため、個人株主は当然、軽視される。表面上は株主は大事といっているが、実際には軽視されていた。

外国人参入で高株価時代突入  

例えば、配当。どれだけ儲かっても常に5円配当だけする。安定配当と称してめったなことでは増配をしない。配当をしっかり収益の増加の際に増やすのは戦後に誕生した企業が多い。それは金融機関との関係が薄く、株主を重視しなくては資金調達に支障をきたすためである。金融機関とのパイプが太い企業は株主の方に顔を向けていないために、欠損となればあっさりと無配にする。株主総会も邪魔されたくないために、総会屋を雇って5分で終わらせるというようなことがまかり通っていたわけだ。何しろ重要なことは銀行との関係なのである。いわゆる、資本自由化に入るまでの1970年代まではそういう銀行との深いつながりが優先されていた。

株価の価値も市場人気があるものの、利回りと発行済み株式数で概ね決まるために、当然、上値も限られたものになっていた。しかし、高度成長期の日本企業は次第に世界から注目されるようになり、海外投資家が1970年代から積極的に日本株を買い始めるようになりはじめて株価の価値そのものの判断も変化していく。彼らの株価判断はPER(株価収益率)という物差し。これは最終利益を発行株数で割って一株当りでどのくらい利益を挙げているかをはじきだし、それを株価で割ったもの。20%成長を5年続けば20倍まで買えるというもの。今では一般化されているが定着するまでには時間がかかった。

 それまで利回りしか頭になかった国内投資家はびっくり。例えば、5円配当で一株利益が20円あっても市場金利が6%であれば、株価は83円までしか買えなかった。しかし、PER論を当てはめると、10%成長を今後見込まれるならば、PERは10倍の200円まで買われてもよいことになる。利回り計算よりも2倍以上買えることになる。

 この物差しによって1970年代には国際優良株や成長業種は外国人によって軒並み大きく買われ、折からの低金利も追い風になって株式ブームが訪れることになる(過剰流動性相場)。この株高によって、銀行からの資金調達が当然としていた企業経営者も資金調達先を株式市場から調達する方法を選択する動きがでるようになる。時価発行増資の幕開けである。額面増資と違って、50億円の資金を調達する場合、500円の株価ならば、100万株の株式を発行するだけでよい。50円額面ならば1000万株と時価発行の10倍も株数が増えることになり、10分の1で同じ資金が集められる。後の配当負担を考えると数段調達コストが安くて済む。しかも、借入金ではないので調達した資金は返済が不要である。非常に有利な調達手段として1980年代には定着する。ここに至って、銀行だけみていた企業経営者は投資家に向いた経営を進める必要性を感じるはずなのだが、残念ながらそれは少数派であった。

戦後派企業が株主優遇で先鞭

高株価で資金調達しても株主還元策はしぶしぶするだけで、中には全く株主還元を無視する企業もあった。時価発行の引き受け先が大部分、銀行などの金融機関で占められていたのが理由である。一般投資家にはやらずぶったくりの状態が依然として続くのである。しかし、そうした中でも戦後うまれた産業の企業は積極的に一般投資家に向いた優遇策を打ち出す。例えば、住宅産業。積水ハウスはプレハブ住宅のトップメーカーで財務体質も一流の会社だが、創生期には赤字続きで融資面でもずいぶん苦労している。なかなか銀行が要求どおりの資金を融通してくれず、涙を飲んだと実質の創業者・田鍋健氏(故人)はしばしば語ったものだ。上場してからはもっぱら時価発行増資による資金調達を積極化し、株主を大事にする姿勢を貫いた。毎期無償(株式分割)や増配などを繰り返し、投資家の人気を集めた。「当社が今日あるのは北浜のおかげだ」と常々口にしていた。今日のIRというような行動も進んで行っており、当時としては先駆的な企業であった。概ね、銀行との関係で苦労して上場してきた企業は一般投資家を大事にする傾向がある。

 このように銀行至上主義は高株価時代を迎えたことで変化をするようになる。株高によって借入金を返済し財務体質を健全化させようとするのは経営者として自然な方向であった。それを促進させる出来事が1973年の第一次オイルショックである。一気に石油が4倍にもなったことで全量を輸入に頼る日本企業は国際競争力の面で大いに不利になる。その危機感からすべての分野の合理化を進める動きが一斉にでるわけだが、財務面も例外ではない。1980年代前半でほぼ全上場会社に時価発行が定着するのである。

 困ったのは銀行。石油ショックからの不況で金利低下が進む一方で企業からは借金返済を進められることで資金がジャブジャブになり、融資先を探すのに苦労することになる。上場企業は返済ばかりなので、これまで、融資先としてあまり力を入れていなかった中堅企業や中小企業にホコ先を向けるのだが、「借り入れをしてくれ」というだけでは埒(らち)が明かないので、不動産、ゴルフの会員権など投資物件をもって融資する作戦にでた。企業側も不況で積極的な設備投資もできないので、こうした物件を積極的に買う姿勢をみせる。上場企業も高株価で更に集めた資金を運用することに力を入れる。不動産はもちろん、株式、ゴルフ会員権などをドンドン買う。1980年後半には不動産、株式に資金が集中し空前の相場を作り上げていく。世に言う「バブル時代の幕開けである」

バブル潰しは大失政

バブルを悪くいうマスコミや経済専門家が多いが、とんでもない誤りである。経済専門紙の日経ですらバブルを当時、批判している。要するに資産インフレであり、バブル時にも物価は安定していたのである。土地、住宅の価格が上昇し、ローンをまじめに返済していた人にとって大いなる福音をもたらした。その結果、消費は順調に伸びて好況感を謳歌していたのである。しかし、日銀や当時の大蔵省は物価上昇の懸念があるとして忌々しく思っており、どこかでこのバブルをつぶそうと画策していた。第一講で触れた官僚の嫉妬も一因である。物価が上昇もしていないのに好ましくないと決め付けていたのだ。本来、政府は実際に物事が起きてから対策を講じる(しかし、なかなか手をうたない)のが常である。それなのに、バブルに限ってつぶすことを早々と画策していたのである。その宣伝役となっていたのが、日経新聞である。要するに、公務員はバブルの恩恵を受けない。住宅も飛び切り安い官舎に入っており、持ち家がない。給料も民間のように一気に上がらない。いわば、民間の景気が忌々しいの怨念だけで、バブルをつぶそうとしたわけだ。

そして、銀行への「総量規制」を大蔵省は通達する。これは、水道の蛇口を眼いっぱい開いていた状態を一気に、閉めたことと同じであり、それまで資金を潤沢に供給していた状態を一気に絞り込む政策であった。民間企業はたまったものではない。昨日まで「いくらでも貸します」といっていのが、今日になって「返済をしてほしい」ということと同じである。これで一気に、不動産、株式がおかしくなり、1990年代の暴落と資産デフレの時代に突入していくのである。そして、今日の不良債権処理対策まで金融大不況が続く金融暗黒の時代に突入したのである。

 時の日銀総裁の三重野氏は1989年から3年の間に金利を2.5%か6%まで一気に上昇させ、不動産、株式の価格を壊滅的にしてしまった。資金供給を止める一方で金利上昇の洗礼を受けると貸し手と借り手は甚大な影響がでるのは当たり前である。融資規制や金利上昇も流れを見ながら判断するべきなのに、一気に締め付けると想像を絶する影響がでるのは当然である。その結果、貸し出し残の20%を超える不良債権を抱える銀行が続出し、通常融資に問題が生じる事態が続くことになる。企業側もその債務が重くのしかかり、低収益企業では長くその処理ができない状態が続く。   

 その処理が1997年にようやく進められることになるが、中途半端に終わり、2002年になって初めて本格的な処理が進められることになる。竹中財政金融大臣の登場によって、不良債権処理の大なたが振るわれることで進みはじめたのである。

企業の資金調達は以上のような変遷を経て、今日を迎えているわけだが、欧米などとは企業株式の持ち株構造が日本とは大きく違っていることに気がつく。個人投資家が約40%を占めることに対して、日本はわずか6%にすぎない。それは説明してきた歴史による結果の通りである。すなわち、資金調達は一貫して、額面時代、時価発行時代を通じて、金融機関が主役になっており、個人投資家など眼中になかったのである。

 金融機関がバブル崩壊によって、不動産に含み損が大量発生した。2003年3月24日に発表された公示価格によれば、12年連続の地価下落になったという。東京、大阪、名古屋の3大都市では商業地が1991年当時と比較すれば、77%の下落率で、1975年並みの水準になったという。その間、1000兆円以上の資産が吹き飛んだ。しかし、不動産の含み損があっても、株式の含み益があれば、銀行の経営は大きな危機を迎えることはなかった。含み益で処理すれば、自己資本比率は最低限守られるためだ。しかし、株式が含み益から損に転落した2000年の日経平均1万7000円割れから経営基盤の弱い金融機関はおかしくなりはじめ、金融危機が叫ばれるようになりだした。そうなると銀行は株式をドンドン手放すことで株価下落に拍車がかかる、一般企業株も銀行保有株の放出で、更に、日経平均は下落する。スパイラル現象が地価、株式に襲いかかり、ついに、日経平均は8000円を割り込むところまで追い込まれたのだ。政府の不良債権処理の本腰は相当、際どいところまで追い込まれてから実行したことになり、その間に失われた国民的資産についての責任問題が問われないのはおかしなことである。

 総量規制を断行した時の土田銀行局長は現在、東京証券取引所の社長についている。堂々と公職についていることは許されないはずだ。バブルつぶしの張本人、三重野氏もその後天下りで公職についている。そういう無責任さはもっと糾弾しなくてはならないはずだ。そうしないとバブル崩壊によって職を失い、自殺した経営者などは浮かばれない。2003年になってようやく不良債権処理が本格的に動きだしたが、実に、失われた金融危機時代は13年に及んだわけだ。

個人投資家育成に全力を

企業も銀行も自社の持ち株構造が銀行、生保、信託銀行と企業の関係会社で概ね70~80%を占め、残りが外国人、個人である。1990年代から2000年までは銀行や企業の持ち合い解消売りを外国人が買ったために、下値も1万5000円までで推移し、株式の含み損も軽微で解消売りも吸収された。しかし、外国人買いが2001年以降、勢いがなくなりはじめてから、解消売りを吸収する積極的買い手がなくなった。支えるのは消極的買い手の公的資金のみとなり、日経平均はズルズルと下落をして、2003年4月の7600円まで下落する事態を迎えた。不良債権問題が下落の主因であったが、外国人買いが細ったことも下落の一因といえる。

しかし、外国人という国外の投資家が自国の株式を支えてくれる唯一の存在というのもおかしなものである。確かに、不良債権処理のために銀行、企業が売却一方というのもよく分かる。しかし、1385兆円の資金をもつ個人投資家がその売却を吸収できるようにしなかった政府の政策も問題である。先ほど説明のように株式のそのうちの資産はわずか70兆円に個人は止まっているのである。残りは圧倒的に預貯金である。その余剰資金を株式の受け皿にする努力をもっと積極的に進めていたならば、日経平均は8000円を割れる事態を迎えることもなかったかもしれないのである。 

バブル崩壊の責任があるはずの財務省が個人優遇に否定的な見解を常にもっていることが許せない。それどころか金融庁によって監視体制を強化することばかりやっている。逆である。個人投資家の育成を怠ることなく、今後に備えることは重要な課題といえよう。

 以上のように企業の資金調達の構造があまりにも銀行に片寄り、かつ、投資家を軽視してきたツケが今になって大きく回ってきたといえる。個人資金が流入しやすい株式市場の環境をちゅうちょなく作ることが必要といえる。売却益や配当課税はもちろん無税、さらには、株式投資をすることでの投資減税まで踏み込むこと、更に、株式投資のために必要な資金がほしい投資家には国民生活金融公庫を使って投資融資制度をつくることだ。融資を受けた投資家は公庫から株式の注文をだすようにすれば、株式以外に資金が使われることもない。教育、事業資金などと同じ扱いをしても何ら問題はないはずだ。更に、市場活性化のために、金融監督庁による過剰介入を止めることのほか、がんじがらめの規制を大幅緩和すること、政府広報は株式の魅力を積極的にPRすることなど従来考えられなかったことを次々に打ち出すことである。もちろん、学校などで金融や株式に対する教育を詳細かつ、積極化させることである。

 機関化現象が強かった株式保有構造に本気になって対策を講じる時がきたと政府は認識すべきであろう。

(第2講おわり)

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